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小鳩会の就学の会に参加して


青野です。

今日、小鳩会の就学の会に参加してきました。

現在小学校に通っている子の親4名(特別支援学校1、支援学級3)が学校の様子をお話され、来年子どもが就学を控えている子の親からまだ赤ちゃんの親たちが熱心に先輩お母さんの話を聞いていました。

私はといえばひろむはもう中学生なのでおよびでない・・のですが、毎年開かれるこの会はなぜか普通学級の話がほとんどなく、小鳩会の親たちは普通学級の情報はいらないのだろうか・・・と悩みながらも、やっぱりお知らせしたい!会長さんに無理を言って今回、昨年の夏のつどいで上映したひろむの小学校生活のDVDをみなさんに見てもらいました。

限られた時間だったので上映以外に話をする時間もなく、DVDの感想や普通学級に関する質問が何も聞けなかったのが残念ですが、参加したかたにこのホームページをお知らせしたのでご覧になっていただいていると信じて、私が今日言いいたかったけど言えなかったこと2つを書きます。

 

まず一つ目は、参加されていたかたから、普通学級を希望していたけれど学校とのやりとりでうまくいかなかった。とか最初から学校に、しょうがいがあるのに普通学級なんて・・という態度をとられた、というお話しがありました。

私もそうでした。むしろ最初からうまくいくことなんてめったにないのかもしれません。でも「学校は変わる」それはありえる思います。私たちが行動すること、思いを伝えることで学校は変わってくれる可能性はあるのです。実際、ひろむも6年間で小学校は変わったと思います。最初からあきらめるのはもったいないのではないか・・と思っています。

 

もうひとつは「普通学級で勉強も分からずずっと座っているだけになって子どもがかわいそう」という話もでました。

でもそれは果たして「無駄な時間」なのでしょうか?私はそうは思いません。同じ教室で同じ空気を吸っているからこそ生まれる仲間とのつながりを感じるからです。それは目に見えるものではないので一見とてもわかりにくく理解されるのも難しいかもしれません。

でもその「空気を共有する」ことがのちの子どもたちにとって大切なものになるのではないかと思います。

このことについては「ワニなつノート」の佐藤陽一さんも書かれています。

 

「誰のものとも考えられずに共有されている」豊かさ

                            佐藤 陽一

 「分からない授業はかわいそう」等という言葉に対して「授業という生活」という言葉で表したかった中身がここにあります。授業という生活のなかでの「考えや声や空気」は三十数人の間に共有されていくのです。日々の生活のなかで「誰のものとも考えられずに共有されている」ものがどれほど豊かな種であることか。

 例えば人はどんなに年をとっても子どものころの同級生の存在は子どものころのままにあります。子どものころのクラス会が50年も60年も続くのはそのときそこにいた仲間の間だけに「共有」された物語があるかあらだと思います。

 「共有される物語」から子どもを取り出してはいけません。子どもの時間に共有された豊かな種が、大人になってからの生きるを支えることもあるのですから。

        (ワニのなつやすみ №98より)